米国大統領のケネディやクリントンが尊敬した上杉鷹山の経営改革

本ブログは、定年後の2007年から働いた中小企業の社報に「上杉鷹山の経営改革に学ぶ」と題して寄稿したものです。

上杉謙信ゆかりの越後高田、直江津の近くにある工場で当初の1年間単身赴任をしていたので、会社の経営者や仲間からは改革の重要性や上杉家のその後が解ってよかったと喜ばれました。

「上杉鷹山」は第9代米沢藩主で、江戸時代の名君でありまして、アメリカ合衆国大統領のケネディやクリントンが、日本の政治家の中で最も尊敬する人物として挙げたし、日本の自治体の首長や企業の経営者で理想のリーダーに挙げる人が多いとのことです。

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米国の大統領に尊敬されるようになったのは、内村鑑三が英語で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した著作である「代表的日本人(Representative Men of Japan)」に選んだ5人の1人として上杉鷹山を取り上げたのがきっかけであると考えられます。まさに「英語での情報発信の重要さ」を認識させられる事例です。 

上杉鷹山の経営改革に学ぶ

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史実では、上杉家は1598年に会津120万石に転封させられます。そして、1601年には関ヶ原の合戦で西軍の石田三成と呼応して家康に敵対したので、米沢藩30万石に減封され押し込められました。その際には、6千人の家臣をリストラすることなく家族を含め3万人で、人口6千人程度の米沢に移動しました。武士を養う為に重い年貢を農民に課すこともなく、倹約に努め、武士を新田開墾に従事させ、漆や青そなどの商品作物の植え付けを進めたので、1619年頃には実質50万石にもなりました。

ところがその後は、藩の上層部に経営者たる資質・力量がなく、18世紀中頃になると他藩とは比較にならない程の家臣の多さによる人件費負担や、名家の格式を重んずる贅沢な生活が改められず、20万両の借金を抱えて財政破綻状態になりました。収入増の為に重税を課したので逃げ出す者も多く、13万人もあった人口が1760年頃には10万人程度まで減少しました。

こうした状況下、宮崎県の高鍋藩主の次男から上杉家の養子となっていた上杉鷹山は、1767年に17歳の若さで新藩主に就任し、革新的な藩政改革に取組み、現代にも通じる経営改革を成し遂げます。改革の進め方は産業振興や財政に明るいブレーンを重用し、先代任命の家老らと対立しながらも、自ら模範を示して倹約に努め、新たな産業を興し、財政を立て直し、次々代には借金を完済します。18世紀後半の天明の大飢饉や保守派の抵抗を乗り越えての50年の長きに渡る粘り強い取組みでの藩再生でした。大飢饉でも米沢藩は1人の餓死者もなかったとのことです。改革の要点を以下に記します。  

  1. 大倹約令の実行:家臣の数を半減された石高15万石に合うまで削減し帰農させ、殖産興業の仕事に転職。藩主自ら倹約を実行し江戸の生活費は1/7に、一汁一采、綿衣を着し、奥女中を数10人から9人に削減。会社でいえば、本社や工場の間接費、人の大幅削減と改革や開発業務へのシフトである。
  2. 米作以外の殖産興業:漆、こうぞ、桑などを増産し漆蝋・和紙や養蚕での絹織物業を興業(米沢印の絹織物は現在でも有名)。武士には新田開墾や家族を含めての農業への従事を奨励し労働力の量と質を確保。即ち、鷹山は単なる倹約一辺倒ではなく、他藩からの技術導入や新田への非課税等「生きた金」を惜しみなく使い、顧客や販路や技術を開拓させ、米以外の高付加価値品を殖産興業しました。
  3. 人材育成、組織改革、福祉政策:師の儒学者細井平洲を招き藩校を再興、藩士・農民など身分を問わず学問を奨励し人材育成に投資。農民から代官への登用や褒賞金制度、農民相互の扶助組織を制定。

老人・病人・妊婦等の弱者重視の福祉政策も行いました。鷹山の改革は構造改革ですが「徳」が基本です。 自助・互助・扶助の3助により、領民と藩士間に信頼と愛を呼戻すという心の蘇生が要なのです。有名な松平定信の寛政の改革や水野忠邦の天保の改革の倹約一辺倒の改革例と比べると優劣は明白です。

為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり
                            <有名な鷹山の言葉であり 座右の銘にしています> 

  We must change Yes we can  改善・改革の火種を燃やし全員に展開 
              <オバマ大統領と上杉鷹山からのメッセージです>

執筆者: 海外支援G 川西宏次

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