私の海外体験―その1

1998年5月12日、トリサクティー大学構内で治安部隊発砲、7人の学生が犠牲となった。翌々日14日、ジャカルタ市内は火の海と化し、市内大通りに面したビルの低層階の窓ガラスはことごとく破壊された。

21日、32年間のスハルト政権は崩壊した。後日、600数十人のレイブも明らかになった。

スハルト

この5月14日(水)、私は自宅から高速道路を小一時間走ったところで、午前8時過ぎから商売仲間の友人とゴルフを楽しんでいた。

7番ホールのティーショットを終え2打目グリーンを狙う地点に向かう途中、フェアーウェイの芝の上をバイクが駆けてきて、「Mr. Totani ! Mr. Totani ! Who is Mr. Totani?」と叫ぶ。「It’s me, What’s the matter?」と怒鳴り返した。「You have requested the urgent telephone call !」

 プレー中にオートバイが駆けつけ、私に緊急で電話だと叫ばれた。

「電話機は今ない。9ホールが終わったらクラブハウスに戻り電話すると電話先に伝えろ」と指示してプレーを続けた。

8ホールのグリーンを終えた。そこに、また、先程のグリーンマスターがバイクで駆けつけ、同じこと叫んだ。私も同じことを言ってプレーを続けた。

9ホールを終え、更衣室から携帯を取り出し会社へ電話をいれた。「社長、緊急で帰って下さい。街中が火の海です」レストランに駆け上りTVを見ると、大変なことが起こっていた。電話口で聞いた通り街中が燃え上がっており、火柱のある煙があちらこちらで立ち上っている。シャワーもせず、そのまま車に飛び乗り会社に向かった。

高速道路入口ゲートは閉鎖されている。舗装も疎らな細い道を3時間近く掛けて会社へたどり着いた。途中道辺で果物を仕入れかじりながら。

株式会社明電舎海外関連会社の一つ、明電エンジニアリング株式会社 PT MEIDEN ENGINERING INDONESHIA。1996年5月私はここの社長に赴任。2年目の出来事。

受注が少なく、債務超過を抱え、本社から容認された取引銀行のOD枠を常に食いつくし瀕死の経営状態を引継ぎ、赴任後は社内組織の全面改訂構築をして頑張っていた最中の出来事である。

着任後受注した電力庁PLNの水力発電所と運輸省陸運総局ジャボタベック管内電気鉄道配電網強化の2つの公共プロジェクトを抱え14人の日本人がインドネシアへプロジェクト建設に出張していた。

その全員を日本国大使館の勧告に従い帰国させた。私一人が残った。アパートのお手伝いさん田舎へ帰宅。街中の商店は全て閉鎖。勿論レストランも食料店もだ。人が生きていく食い物が手に入らない。

幸いにも、知人から某社出張者がヒルトンホテルを出る情報を頂き、その人の名前のままで継続宿泊ができた。ゴルフパター1本、テニスラケット2枚、海水パンツ2枚の軽装で事が静まるまで過ごすことにした。

事件勃発5月14日、出張者全員帰国18日、同日18日ホテルチェックイン、21日スハルト大統領退任、24日ホテルチェックアウト。

事の起こりは、タイの国から発展した為替通貨の暴落が起因した。

1998年初頭まで年間4~5%の安定安値方向へ推移していたインドネシア通貨は、内乱勃発前2400RP/USDが、政権崩壊に至った時期は最低16,000RP/USDを超えた。その後、10,000RP/USDを安定推移するも、現在12,000RP/USD前後。

為替暴落は、海外からの資金支援でインフラ投資の返済金が自国通貨換算で数倍にもなり大変な債務を抱えることになる。 私の受注したプロジェクト2件合計35億円程度であるが、現地通貨換算で8.4兆ルピアが、42兆ルピアに増大する。このことは電力料金、電車乗車料金値上げをするか、公共料金全体値上げしないいと返済が出来ない事になる。
いわゆる、インフレの意図的高騰政策だ。

6年目には、債務超過解消、売上は赴任時期に比し22倍。
ここに至った企業努力を書きたいのですが、少し紙面がいります。
今日はここでやめます。

 

執筆者: 海外支援G 戸谷 憲一

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